鷲頭山からの下りの途中に小鷲頭があります。小鷲頭は、その名前の通り鷲頭山と融合する形で頂上付近に一段低く寄り添うように隆起しており、全体的に、展開すればさぞかしきれいに2つの正規分布に分かれるのではないか、というような曲線をしています。とりあえず先ほど休憩したばかりなので、ここはスルーして先を急ぎます。
小鷲頭を下りきると、その後しばらくは見通しの良い緩やかな尾根道が続きます。途中には展望台が複数設置され、要所要所で駿河湾の絶景を楽しむことができます。
しかし快晴なのはいいですが、とにかく暑い! 体への負荷に加え、登りの傾斜では陽の射す角度もクリティカルに決まり、体力をごっそり持っていかれます。
そして、そんな風前の灯火状態のハイカーにとどめをさすように、峠の急な上りが待ち構えています。正直一気に登るにはしんどい勾配ですが、途中の休憩できそうなポイントに数組のハイカーが陣取っていたため、ノンストップで登る羽目になりました。
沼津アルプスよ、お前の凄さはよくわかった、ナメてかかってすまんかった、だからもう許してください、もうムリ、お金ならあります、などと朦朧とする頭で考え始めた頃、登り勾配の上に森が見えて来ました。志下坂峠の林道です。
日陰に入ったとたん、森の奥からびっくりするほど冷たい風が吹き抜けました。本気で「エアコンか?!」と思いました。思わず立ち止まって"ショーシャンクの空に"のジャケみたいなポーズで涼風を堪能してしまったほどです。
直前の灼熱地獄と比べると林道は天国のような快適さで、ありがたみもひとしおです。人生に必要なのはやはりこういうメリハリであったのだな!と、ひとりごちました。
木漏れ日の落ちる緩やかな森の道をゆったり歩いていると、ふもとから荒いスピーカーの声が聞こえてきました。
「先ほど、連絡した、イシイさんですが、見つかりました。ご協力、ありがとうございました」
出た、徘徊老人の通達です。「無事見つかりました」と言わない辺りに色々深読みしたくなるものを感じますが、そこはスルーします。それにしても、ふもとの町からは1キロ以上離れているはずですが、うるさいくらいに声が響いてきます。前に丹沢の表尾根を歩いている最中に同じような役場(?)の放送が聞こえてきたことがありましたが、たぶんこの放送も周囲5キロくらいに響き渡っているに違いありません。
私が子供の時分の話になりますが、やはり地元でこういう町内放送を聞くことがあり、そのたびに"老人と徘徊"の因果関係について思いをはせたものでした。外出中に突然自分の置かれた状況を忘却してしまうのか。それとも単に何らかの逃避的な感情に起因するものなのか。あるいは「50年前に借りパクしたままの奥山彩子のレコードを返しにいかなくては」等、脳内に突発的に発生した案件に突き動かされてしまうのか? 真相はいまだ謎のままです。ただこのテーマに関しては、あと4、50年もすると我が身をもって理解できてしまう確率が高まってくるので、一生理解できないよう脳トレに励もう、と心に誓いました。
毎度のことですが、山歩きは歩く以外にすることがないので、ついついこういう物思いにふけってしまいます。
ちなみに登山地図で見ると、鷲頭山から徳倉山の間は2km以上離れています。鷲頭山の行程で疲弊し、「まだあと残り半分以上あるのか」と心が折れそうになる人もいるかもしれませんが、実は徳倉山までのほとんどの区間は緩やかな尾根道で構成されています。徳倉山以降は再びアップダウンが増えてくるので、この区間で疲労回復しておきます。
鷲頭山の下りの途中にある中将岩。 冒頭の写真は志下山辺りから鷲頭山を撮ったものだが、小鷲頭の頂上付近に覗く岩壁がこれ。思いっきりパースをつけてもフレームに収まらないほどの巨岩だ。 |
しかし快晴なのはいいですが、とにかく暑い! 体への負荷に加え、登りの傾斜では陽の射す角度もクリティカルに決まり、体力をごっそり持っていかれます。
写真だけ見るとわたせせいぞうのイラスト並の爽やかさだが、日差しは強いし、日陰はないし、砂利道は照り返しがひどいし、脳内でサンゲリアのテーマ曲がリピートしてるし、と過酷な状況が確実に体力を削ってゆく。 こんな日には、命を落とすやつが多い!(そのネタはもういい) |
沼津アルプスよ、お前の凄さはよくわかった、ナメてかかってすまんかった、だからもう許してください、もうムリ、お金ならあります、などと朦朧とする頭で考え始めた頃、登り勾配の上に森が見えて来ました。志下坂峠の林道です。
日陰に入ったとたん、森の奥からびっくりするほど冷たい風が吹き抜けました。本気で「エアコンか?!」と思いました。思わず立ち止まって"ショーシャンクの空に"のジャケみたいなポーズで涼風を堪能してしまったほどです。
直前の灼熱地獄と比べると林道は天国のような快適さで、ありがたみもひとしおです。人生に必要なのはやはりこういうメリハリであったのだな!と、ひとりごちました。
木漏れ日の落ちる緩やかな森の道をゆったり歩いていると、ふもとから荒いスピーカーの声が聞こえてきました。
「先ほど、連絡した、イシイさんですが、見つかりました。ご協力、ありがとうございました」
出た、徘徊老人の通達です。「無事見つかりました」と言わない辺りに色々深読みしたくなるものを感じますが、そこはスルーします。それにしても、ふもとの町からは1キロ以上離れているはずですが、うるさいくらいに声が響いてきます。前に丹沢の表尾根を歩いている最中に同じような役場(?)の放送が聞こえてきたことがありましたが、たぶんこの放送も周囲5キロくらいに響き渡っているに違いありません。
私が子供の時分の話になりますが、やはり地元でこういう町内放送を聞くことがあり、そのたびに"老人と徘徊"の因果関係について思いをはせたものでした。外出中に突然自分の置かれた状況を忘却してしまうのか。それとも単に何らかの逃避的な感情に起因するものなのか。あるいは「50年前に借りパクしたままの奥山彩子のレコードを返しにいかなくては」等、脳内に突発的に発生した案件に突き動かされてしまうのか? 真相はいまだ謎のままです。ただこのテーマに関しては、あと4、50年もすると我が身をもって理解できてしまう確率が高まってくるので、一生理解できないよう脳トレに励もう、と心に誓いました。
毎度のことですが、山歩きは歩く以外にすることがないので、ついついこういう物思いにふけってしまいます。
ちなみに登山地図で見ると、鷲頭山から徳倉山の間は2km以上離れています。鷲頭山の行程で疲弊し、「まだあと残り半分以上あるのか」と心が折れそうになる人もいるかもしれませんが、実は徳倉山までのほとんどの区間は緩やかな尾根道で構成されています。徳倉山以降は再びアップダウンが増えてくるので、この区間で疲労回復しておきます。
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